History

90年の歴史

創業者や経営者の想いと共に、時代の変遷を乗り越えながら歩んできた当社グループの「90年の歴史」をご紹介します。

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前史

映画産業との出会い

関東大震災の復興に追われる1926年頃、株式会社長瀬商店(現・長瀬産業株式会社)の常務取締役を務めていた長瀬徳太郎は、映画用生フィルムの輸入販売に乗り出しました。

サイレント(無声)映画から音声付きのトーキー映画へと進化を遂げる1930年代初頭、長瀬徳太郎は映画業界の近代化を見据えて、京都・太秦に「極東フィルム研究所」を開設、映画用フィルムの現像・プリント事業を開始することを決断しました。

創業者・初代代表取締役社長 長瀬徳太郎
創業者・初代代表取締役社長 長瀬徳太郎
「人間は死ぬまで向上心を忘れてはいけない。どんな人でもいつかは死ぬ。わしは、いつ死んでも悔いのない人生を送りたいのだ」

長瀬徳太郎が目指したのは、日本で初めて機械式の自動現像機を備えた商業フィルムラボ。
当時長瀬商店の取引先であった、イーストマン・コダック社に技術の指導を受けながら、京都工場を建設し、1932年に竣工しました。

京都工場(京都・太秦)
京都工場(京都・太秦)

こうして、わずか8名でスタートした「極東フィルム研究所」から、私たちの歴史は動き出しました。

当社第1号の自動現像機
京都工場第1号の自動現像機
溶液室、カメの水を蒸気で温め薬品を入れ櫂で液を溶いていました
溶液室、カメの水を蒸気で温め薬品を入れ櫂で液を溶いていました
1935

1935-1949

商業フィルムラボの幕開け

映画産業と共に、技術を磨く

1930年代初頭、新しい大衆娯楽として登場した「映画」は、瞬く間に一般生活に浸透しました。さらに、外国映画が加わったことで映画は全盛時代を迎えます。

現像の需要が高まる中、それに応えるため、輸入作品の通関手続きに便利で、かつ東京に隣接する横浜に現像所を建設する計画が立ち上がりました。この計画を契機に、1935年2月18日「極東フィルム研究所」は長瀬商店から独立し、「株式会社極東現像所」が設立されました。長瀬徳太郎は、初代の代表取締役社長に就任しました。

1936年に竣工した横浜工場
1936年に竣工した横浜工場
株式会社極東現像所の看板
株式会社極東現像所の看板
社名にある「極東」は、日本をはじめとした東アジアの総称であり、この地域随一の商業フィルムラボであるとの誇りを込めて命名しています

長瀬徳太郎は、創業に先立ってアメリカの現像所を視察した際、大手のフィルムラボは使用する現像機を自社製作する技術をもっていることを知り、「我々も自社で製造、開発できる技術を持つべきである」と痛感していました。1936年に横浜工場が完成した際には、これを実践するかたちで自社製作による現像機を設置しています。現像機製作にあたっては、妥協を許さず慎重なテストや改良を繰り返し、品質向上を追求していきました。

やがて日中戦争が勃発。戦争の長期化にともない外国映画の輸入が制限されていきます。現像に必要な原材料が不足、とくに生フィルムの輸入も困難な状況下で、横浜と京都の人員を工面しながら、運びこまれるフィルムの現像処理作業に向き合っていきました。

太平洋戦争が開戦されると、1942年に「極東現像所」は「東洋現像所」へ改称することになります。

当時のモットーは“正確・迅速”は鉄則のうえで、“どんなことがあっても納期は守る”
当時のモットーは“正確・迅速”は鉄則のうえで、“どんなことがあっても納期は守る”

終戦をむかえ、長瀬徳太郎は、従業員を集めて以下のように話しています。

「長い戦いでしたが、これからは平和産業、つまり我々の時代が到来します。我々は、これまで蓄積した技術に今後さらに磨きをかけて乗り込んでいく番です。しばらくはつらいけれど、なに、苦しいことばかり続くものではありません。力を合わせて現在の難局を乗り切れば、必ず明日が拓けてくるものです。」

資材不足を創意と工夫で補い、現像機の製作に取り組んでいきます
資材不足を創意と工夫で補い、現像機の製作に取り組んでいきます

その後、到来するカラー時代の幕開けを前に、横浜に続き、東京へ進出する決意をしたのもこの時期です。着実な地固めをするために、東京・品川(五反田)への新工場設立に向けて準備が加速していきます。

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1950

1950-1969

フィルム全盛期と映像表現の多様化

カラー技術やフィルム現像の進化により映像の魅力を追求

五反田工場建設中の様子(1951年竣工)
五反田工場建設中の様子(1951年竣工)
1950年公開、1951年 第12回ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞された黒澤明監督『羅生門』(大映)の現像処理を担当
1950年公開、1951年 第12回ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞された黒澤明監督『羅生門』(大映)の現像処理を担当
©KADOKAWA 1950

東京・品川の地に五反田工場(1956年、東京工場へ改称)を開設した1950年代は、フィルム現像の全盛期。外国系ニュース映画に加えて、戦後復興の足並みに合わせて、次第に劇場映画作品の受注も増加していきました。

この時期に、海外の新しい技術情報をもとに「カラー現像」の研究を本格的に開始していきます。需要が伴うかどうかも不確かな中での研究開発ではありましたが、当時の技術者、従業員の皆が「ぜひともやり遂げなければならない」と覚悟を決め、慎重なテストを繰り返し行い、現像処理能力の向上に務めていきました。

その結果として評価をいただいたのが、1954年の第7回カンヌ国際映画祭でグランプリ他を受賞されたイーストマン・カラー ネガフィルムによる第1号作品『地獄門』(大映)の現像処理。本作は、第7回日本映画技術賞にて劇映画現像部門を受賞しました。

1953年公開、衣笠貞之助監督、脚色『地獄門』(大映)の現像処理を担当
1953年公開、衣笠貞之助監督、脚色『地獄門』(大映)の現像処理を担当。イーストマン・カラーを日本人独特の色彩感覚で構築し、緻密に計算された色彩効果が国際的にも高く評価いただきました(地獄門 デジタル復元版 [Blu-ray] 発売中)
©KADOKAWA 1953

映画のカラー化と同時に視聴画面のワイド化や大型化が台頭、さらには、テレビの白黒、カラー放送が開始されていくと、映画をテレビで放映するために必要な新技術の開発や実用化にも、フィルム現像で培った技術を活用していきます。

1963年、連続テレビアニメーション手塚治虫 原作・総監督『鉄腕アトム』(虫プロダクション制作)の現像処理を担当

1963年、連続テレビアニメーション手塚治虫 原作・総監督『鉄腕アトム』(虫プロダクション制作)の現像処理を担当。この当時のテレビアニメーションは白黒で放送されていました。
(C)手塚プロダクション

高度経済成長と東京オリンピック開催もあり、1965年には国内テレビの普及率は90%へ急成長。テレビCMのカラー化が加速し、横浜工場をはじめ各工場ではフィルムの焼き増しプリント作業が膨大に増えていきました。その一方、映画館数が徐々に減少していく中で、「今後は映画産業のみならず、テレビ業界、一般写真業界とも密接な関係を保ちながら前進しなければならない」と時代の変化にあわせて、新たな事業展開を図っていくことになります。

映画フィルムのカラー現像の技術を活かし、写真事業にも本格進出
映画フィルムのカラー現像の技術を活かし、写真事業にも本格進出
現像技術のみならず薬液分析も入念に取り組み、地道な作業で高品質を支えていました
現像技術のみならず薬液分析も入念に取り組み、地道な作業で高品質を支えていました
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1970

1970-1989

ビデオやデジタル技術による映像新時代へ

培った技術力で新しい映像表現へ挑戦

「日本万国博覧会」(大阪万博)が開催された1970年に創業35周年を迎えました。その式典で長瀬徳太郎は次のように述べています。

「フィルムの現像処理のみならず、情報の媒体となる各種の材料を処理する企業として、映画産業にとどまらず、広い情報産業の一翼を担う企業として発展を期さなくてはならない。」

将来の発展を見据え、ビデオ産業への参入を検討する委員会を発足。翌年、当時の担当役員が技術者を伴ってアメリカでの動向調査を実施しました。

アメリカでのポストプロダクションの数や規模、新たな映像表現として進展する特殊合成技術の報告を受けた長瀬徳太郎は、「これまでも多方面で技術開発を行い、ラボ産業のリーディングカンパニーとして貢献してきた。パイオニアにリスクはつきものだ」と、このビデオ産業への挑戦を決断。

東京工場にてポストプロダクションサービスを開始し、以降、東京・品川(東品川)にも拠点を構えて事業を拡大していくことになります。

東京工場のビデオ編集室
東京工場のビデオ編集室

1982年には、NHKが開発していたハイビジョンによる映像制作と3DCGの本格的な研究開発に取り組むために大阪大学電子工学科と共同で「株式会社トーヨーリンクス」を設立。同社はその後、日本のCGプロダクション黎明期を支えるまでに成長していくことになります。

「東洋現像所」に社名を変更して以降、半世紀以上にわたって順調に業容を拡大していきましたが、フィルムからビデオへメディアが変遷する中で、映像業界を取り巻く時代の流れに強い危機感を持った経営陣は、この頃から経営理念の構築、社名変更など次々と改革案を打ち出していきます。

こうして、1986年1月「株式会社IMAGICA」が誕生しました。
「IMAGICA」の社名のコンセプトは、ラテン語女性形容詞<IMAGINICA=映像の>を語源とする造語です。「現代社会において映像のもつ役割は限りなく大きくなっている。映像コミュニケーションの可能性を広げることを通じて、社会・文化に貢献していこう」という決意が、「IMAGICA」の社名に込められています。

1989年に竣工した東京・品川(五反田)の新東京映像センター
1989年に竣工した東京・品川(五反田)の新東京映像センター

さらに、様々な事業のデジタル化にも対応していくために「研究開発」機能を創設し、将来の発展へ向けた基礎作りと、長期的な視点で「技術開発」体制の強化にも取り掛かります。また、ハイビジョン時代の到来に先駆けて、1980年後半からはハイビジョンでの大型映像制作を視野に技術研究にも着手、その後、数多くの作品へ参画していきます。

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1990

1990-2004

事業多角化

脱・現像/拡・現像

1992年、全社の改革をさらに推進していくため「IMAGICA経営理念」を小冊子にまとめて全社員に配布し、意識改革の徹底を図ります。

この経営理念の端緒となったのが、「脱・現像/拡・現像」という言葉。
現業はもとより新規事業への挑戦へと乗り出していく決意の表れでもあり、この経営理念自体が映像の世界が大きく変化する未来に向けて、会社を変えていく宣言でもありました。

「IMAGICA経営理念」表紙(1992年)
「IMAGICA経営理念」表紙(1992年)

テレビ分野では、ポストプロダクションのデジタル化やノンリニア化(*1)など、映像業界のリーディングカンパニーとなるべく、日本初導入の機材も投入。CM分野の受注拡大に向けては、フィルム設備との親和特性を生かしながら、高機能な合成・編集システムなどを積極的に導入していきます。また機材だけではなく、この期間には、赤坂、銀座、麻布十番と新拠点を数多く設立していきました。
*1 映像や音声をデジタルデータとしてコンピュータ上で自由に編集する手法

映画分野においては、1993年にシネマコンプレックスが登場して以降、大量焼き増しプリント作業が爆発的に増加していく一方で、デジタル化の波に対応するため、映画におけるポストプロダクション作業をすべてデジタル化して行うプロセスを構築していきました。

さらに、2000年からはデジタルシネマ分野の技術サービスの開発にも積極的に取り組み、日本で最初のデジタルシネママスタリング(*2)を実施。2001年に公開されたスタジオジブリの宮﨑駿監督作品『千と千尋の神隠し』(東宝)のデジタルマスタリングを担当しています。
*2 映画を劇場で上映するために、デジタルフォーマットに変換・最適化する作業

2001年に公開されたスタジオジブリの宮﨑駿監督作品『千と千尋の神隠し』(東宝)のデジタルマスタリングを担当しました
2001年に公開されたスタジオジブリの宮﨑駿監督作品『千と千尋の神隠し』(東宝)のデジタルマスタリングを担当しました
© 2001 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NDDTM

新規事業への参入に関しては「脱・現像」を理念に、映像制作における「川上から川下まで」の両方向を目指し、様々なジャンルへと果敢に挑戦していきます。

その1つとして応用技術の高度化こそが新たな競争力になると判断し、1992年にハイスピードカメラの自社開発・製造や販売の経験を数多く有する株式会社フォトロンをグル-プに迎えました。1996年には、映画専門チャンネルとして「シネフィル・イマジカ」を開局、1997年には日本初の食専門チャンネルとして「食チャンネル」を開局して衛星放送事業に進出しました。

1992年の発売当時、世界最高の撮影速度を誇ったフォトロン製ハイスピードカメラ『FASTCAM-Ultima』
1992年の発売当時、世界最高の撮影速度を誇ったフォトロン製ハイスピードカメラ『FASTCAM-Ultima』
©2017 WOWOW PLUS INC. All Rights Reserved.
©2017 WOWOW PLUS INC. All Rights Reserved.

さらには、映像制作における「人」「クリエイティビティ」の重要性にも着目し、2002年以降は「川上」領域で事業を展開する様々な企業がグループに参画していくことになります。

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2005

2005-2024

グループ経営体制の確立、新領域へ

先端技術を活用し、新たな映像価値を創出

2006年、広告や映画制作を手掛ける株式会社ロボットとの経営統合により、映像の企画・制作から流通まで一貫した事業を担うグループの集合体として「イマジカ・ロボットグループ」が発足。ここから、グループ経営体制が急速に進んでいきます。

2007年には、純粋持株会社の株式会社イマジカ・ロボット ホールディングスが株式上場を視野に準備をスタート。2011年、ジャスダック市場へ株式公開を果たし、2014年には東証一部に上場しました。(2022年、プライム市場へ移行)
2015年には海外事業へ本格的に進出し、国内では、アニメーション制作の領域にも進出していきます。

イマジカ・ロボットグループ当時のグループ経理理念
イマジカ・ロボットグループ当時のグループ経理理念
東証一部へ上場した際の企業広告
東証一部へ上場した際の企業広告

2016年には、IoT、AI等の新技術を利用したビジネスの拡大、映像技術の高度化に対応する積極的な研究開発を推進していきます。2017年には、グループ横断の研究開発機関「Advanced Research Group(ARG)」を設立。グループ各社のR&D組織と連携し、国内外の大学とオープンイノベーションで各種の研究開発にも取り組んでいきます。

研究開発の成果として、リアルタイム・メモリレス高速度カメラの製品試作を行い、のちに「INFINICAM UC-1」として発売
研究開発の成果として、リアルタイム・メモリレス高速度カメラの製品試作を行い、のちに「INFINICAM UC-1」として発売
(フォトロン製)

2018年には、国内外におけるグループ一体経営をより強化するために全社的なブランディング刷新を実施し、グループ企業の集合体を表す名称を「映像を通じて世の中に貢献する」という想いを込め「IMAGICA GROUP」と定めました。

そして、現在。
祖業であるフィルム事業をはじめ、映像に関するサービスや製品をエンタテインメント分野から産業分野まで、グローバルにワンストップでお届けするグループ集団となりました。IP創出にも挑戦し、『薬屋のひとりごと』『オッドタクシー』などの人気作品を生み出しています。

『薬屋のひとりごと』
『薬屋のひとりごと』
©日向夏・イマジカインフォス イラスト:しのとうこ
TVアニメ『薬屋のひとりごと』
TVアニメ『薬屋のひとりごと』
©日向夏・イマジカインフォス/「薬屋のひとりごと」製作委員会

XR、デジタルツインといった先端技術を活用したエンタンテイメントの創出や、AIを活用したアニメーション制作工程の効率化に取り組むほか、産業分野においては、独自の画像センサー技術を応用したハイスピードカメラを世界各国の自動車メーカー等に販売し、保守サービスも提供しています。

「TOKYO STATION VISION」
「TOKYO STATION VISION」

東京駅丸の内駅舎保存・復原工事の完成を祝して行われた、国内史上最大規模の3Dプロジェクションマッピングイベント。(映像制作:P.I.C.S.)

© East Japan Railway Company / NHK Enterprises
「MUUUSE:MUSIC MUSEUM~⾳に触れる、光を聞く。⾝体が反射する。~」
「MUUUSE:MUSIC MUSEUM~⾳に触れる、光を聞く。⾝体が反射する。~」

TOKYO NODEで開催された⾝体ごと⾳楽に没⼊する新感覚の⾳楽体験ミュージアム。(展示会体験設計の企画・制作:IMAGICA EEX)

Photo by アンザイミキ
奈良先端科学技術大学院大学と千葉大学、OLMデジタルで、AIを使ったアニメキャラクターの自動彩色の共同研究を実施。少量のデータからでも学習が可能な彩色システムを開発。
奈良先端科学技術大学院大学と千葉大学、OLMデジタルで、AIを使ったアニメキャラクターの自動彩色の共同研究を実施。少量のデータからでも学習が可能な彩色システムを開発。
フォトロン製ハイスピードカメラで撮影した自動車衝突安全試験の様子
フォトロン製ハイスピードカメラで撮影した自動車衝突安全試験の様子
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202

100年、その先の未来へ向けて

1935年の創業以来、
私たちは「映像」に関連するあらゆるサービスを、
エンタテインメントから産業まで幅広い分野にて提供してまいりました。

そして、この90年の歴史の中で、
私たちは、常に時代の変化に柔軟に対応し、
最先端を追求しながら、新しい挑戦を続けてまいりました。

新たな取り組みには多くの困難を伴いますが、
時代の変化を追うだけではなく、
先を見据えて挑戦をし続けていくことが私たちのミッションです。

フレームに捉われない発想で
これまで培った技術、創造力、品質、そしてお客様からの信頼を基盤に、
これからも未来に向けて歩みを進めてまいります。

映像と共に90年、
我々の挑戦は、新たなステージへ。